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第1話 命を食う怪物

 太陽は地の底に眠り、月が空に昇る。 月はギラギラと輝いて闇をかき消し、大地を青く染め上げる。 強くは照らさないが、どこまでも届くような荘厳な光。 月光が夜の大地を支配しようとしていた。 しかしこの大地には、その光さえも届かない深い森がある。 生い茂る木々が月の光を遮り、地上の闇を一手に集める森。 そこにある闇は、静寂とは程遠い。 獣は雄叫びを上げ、鳥はけたたましく羽ばたき、虫は死肉に群がり蠢き騒ぐ。 無数の命が一つ、また一つと数を減らしていく。 そしてその命は、他の命の糧となる。 この森ではこの喧騒こそが“正常”である。

 ある夏のある夜、この森に“異常”が迷い込んだ。

 ガサガサと草を掻き分けて走る複数の足音。 逃げる音が一つと、追う音が三つ。 一つは人間。後ろで縛った淡い栗色の長髪、白い肌、黒い瞳を持ち、年は二十ほどの女性。 細身な体に革の鎧を身につけ、上下とも袖の長い服を着ている。 息は切れ、足はもたつき、服は汗を吸って重くなってしまっている。 他の三つの足音はトカゲの怪物。 毛の無い乾いた皮膚、太く長い尻尾、細く短い手足を持ちながら、 大柄な人間に匹敵するほどの大きさ。人間のように二足歩行をし、 人間と同じ言葉を発して連携を取りながら女を追いかけている。 女は後ろと左右を怪物に陣取られ、いつ追い詰められてもおかしくない。 もしも追い詰められれば、その鋭いカギ爪と強力なアゴでた易く引き裂かれてしまうだろう。

 彼女は剣を持っていた。戦闘を想定して作られた最小限の装飾のショートソード。 いざとなれば戦えるように訓練も受けている。 それでも、彼女は逃げるしかない。 彼女はそれほど怪物のことに詳しくない。それでも人間ならば誰もが知る事実がある。 怪物の体力、筋力、視力、聴力、嗅覚、そして食欲……それらは全て人間を上回る。 獣が鳥を喰らうように。鳥が虫を喰らうように。 怪物は人間を喰らう。 この森の“正常”に決して例外は無い。 それも道具の一つや二つで覆るものではない。 武器は避けられ、罠は気付かれ、言葉による交渉も踏み倒されるだろう。

 彼女の存在が異常たる理由はそこではない。 単に、この森で生き残っている人間がいることが珍しいというだけの話である。 この森には、彼女を助けられる人間は一人もいない。

 女は足を止めた。 三体の怪物はもう目前まで迫っている。このまま背を向けていてはどうなるか分からない。 確実に離れられるよう、隙を作らなければならない。

 木を背にし、怪物の姿を確認する。 左手側から迫っていた怪物が跳んだ。 右足を後ろに引き、素早く木の後ろに回りこむ。 怪物は木にぶつかり、葉が激しく揺れる音が周囲に響き渡る。 それに足音を隠しつつ、そのまま木から遠ざかろうとした時―― 突然額に打撃を受けた。 視界がぶれ、足が浮き、体が水平になる。 そして横倒しのまま地面に叩きつけられた。 疲労に痛みが加わり、立ち上がるどころか周囲を見回すことさえできなかった。

 聞こえたのは、三体の怪物が打撃を受けて倒れていく音。 人間も怪物も倒されたことに強い違和感を覚えた。 しかし、それは意識を保つことへの助けにはならなかった。 すぐに視界は暗くなってしまい、疑問は闇に吸い込まれていった。


 女は目を覚ました。 頭だけでなく全身が痛む。 痛みの中には筋肉痛もある。丸一日以上気を失っていたのかもしれない。 周囲は明るい。目の前に木造の天井と壁が見える。 この建物はごく小さな小屋で、この部屋は一人用の寝室のようだった。 倒れた自分が屋内にいるという事は、誰かに助けられたのだろう。 それにはもちろん礼をしなければならないが、 そうも言っていられない程にひどく空腹だった。 首だけ動かして辺りを確かめてみても、食べられそうな物は無い。 自分が寝ていた寝床の素材である草の葉を食べる気にはならない。 部屋の隅に捨てられているネズミの死体など以ての外だ。 ふらつきながらも立ち上がり、部屋を出た。

 隣の部屋は居間のようだった。 いかにも手作りの無骨な木製テーブルや丸太の椅子がある。 テーブルの上の木箱には木製の食器類が雑然と放り込まれている。 食器だけでなく殆どの物が木製だ。 そして、全体的に雑然とした部屋だ。女が持っていた剣や荷袋も床に落ちていた。

 疑念は膨らむ一方だった。自分を助けた人間は一体何者なのだろうか。 気を失っている女性を寝かせただけで放置して、肝心な時にいなくなる。 人助けをするような人間にしては扱いがぞんざいだ。 服を脱がされたような形跡こそ無いが、いつ何をされるか分かった物ではない。 礼は軽く済ませて早く立ち去った方が身のためかも知れない。

 必要最低限の身支度を済ませて扉に向かった時、音が聞こえた。 外で無数の鳥が騒ぐ音。ギャアギャアという叫び声と、バサバサという羽ばたきの音。 あの森で幾度と無く聞いた音。 命がまた一つ減った音。

 ふと嫌な予感がした。 自分を助けた人間は今どこにいるのだろうか。 まさかあの森に足を踏み入れてはいないだろうか。 それだけならまだいい。 もしもあの森の“正常”がこの小屋の中まで広がっているのなら、 自分を助けた人間は無事ではないのかもしれない――

 そこまで考えた時、外から足音が聞こえた。 とても重い足音が、草を押しのけ踏み潰しながら近づいている。 女は慌てて元いた寝室に戻り、部屋の仕切りとなっている壁に身を隠した。 そして、剣を鞘から抜いて構える。 疲労のせいか、剣がいつもより重く感じる。 居間の扉が開く音がする。 足音の主は一人。 とても重い足音が居間を横切る。 足音が止まり、カチカチと食器を漁る音が響いた。 ……この時点で、足音の主は人間だろう。 安堵し、剣の切っ先を床に落とした。 床材がガリガリと削れる音が出た。 すると食器を漁る音が止み、足音はこちらに近づいて来た。

 現れたのは背の高い人間の男――ではない。 確かに人間の男性と似た姿だが、同時に決定的に違う姿でもある。 黒い角、鋭い牙、そして薄ら青い肌。骨の浮いた顔が特徴的だが、その巨体は筋肉質。 明らかに怪物だった。 右手には大きな鳥の死体。左手は素手。

 当然、目が合った。
「ば、化け物ぉ!!」

 女は動転し、構えるのも忘れて剣を振り上げた。 怪物はそれに気付き、咄嗟に攻撃を受け止めようとするが、遅かった。 怪物の右腕は肘から切断され、寝室の中央まで吹き飛んだ。 切断面が光を反射した。血は出ていない。
「…………」

 怪物は全く動じていない。ぎょろりと眼を動かし、女が持っていた剣を睨んだ。
「う、うわあああああ!!」

 喚き叫び、さらに剣を振り回す女。 その剣が怪物の胸に届く前に、怪物は残った左腕の掌で女の胸を押した。 体が軽々と突き飛ばされ、壁に叩き付けられた。 剣は手から離れ、床に放り出される。
「うう……げほっ」

 咳をして体を起こす。再び剣を取ろうと手を伸ばしたが、怪物に先に拾われてしまった。
「動くな」

 怪物が低い声で言葉を発した。女は驚いた。怪物にしてはまともに発音している。 ……言われずとも、こちらの体力は限界なので、剣を奪い取ることも逃げることも不可能だ。 動くという選択肢などとっくに失っている。
「全く、安静にしていれば良いものを……」

 怪物はそう呟き、拾った剣を目の前にかざしながらジロジロと観察している。 落とした右腕を気にする様子は無い。 むしろ女の方がそれを気にする余り、呼吸が乱れきっていた。 部屋の中央に目をやると、落ちた右腕が未だに鳥の死体を握っていた。 やはり一滴の血も流れていない。 どちらの切断面も銀色に輝く平面そのものだった。
「おい」

 怪物に呼びかけられ、女は硬直した。
「この剣、銀が混ぜられているんだな?」
「し……知りません」

 乱れた呼吸を整えながら、言葉を搾り出す。
「知らない? どういう意味だ?」
「貰い物だから……」
「誰から?」
「……言えません」
「何でだ?」
「それは……知らない人だから……」
「嘘くさいな」

 女はその返事に少々驚いた。この怪物は単純な単語を知っているだけでは無さそうだ。 こちらの言葉を理解し、会話をし、そして嘘まで見抜いた。 それでも見るからに怪物なのである。 何を考えているのか分からないという恐怖は拭い去ることができない。

 意識が朦朧とし、自分でも分かるほど言い繕いが下手になっている。 このまま質問攻めされるのは得策ではない。助けが来ないものか。
「私を助けた方は、どうしたのです?」
「は?」
「……どうしたのですか?」
「ああ、助けたのは俺だ」

 その言葉は、恐らく自分よりずっと嘘くさい。 怪物ならば倒れた人間はその場で喰らってしまうはずだ。 自分を助けた人間は既にこの怪物の胃の中にいるに違いない。
「私をどうする……つもり、なの?」

 女が尋ねると怪物は少し考え込み、剣を床に放り投げた。 そして、自分の落ちた右腕を左手でつまみ上げた。 握られたままの鳥の死体が不気味さに拍車をかけている。
「さあて、どうしようか。このまま帰すつもりだったが、お前のせいで俺の腕はこのザマだ。 これが治るまで、帰す訳にはいかないな」

 これもまた嘘くさい。 最初から最後まで帰す気など無く、腕が治った時が自分の命日になるのだろう。 しかしこのザマだと言われても、目の前の光景がよく理解できない。 なぜ血が出ないのか。痛みは無いのか。驚きは無いのか。
「……治るのかしら?」
「ああ。北の谷に住んでるドラゴンのおっさんが治せる」

 鼻が曲がりそうなほど嘘くさい。 しかし、ドラゴンというのが通称か何かだと考えれば納得はいく。 怪物専門の医者がいたとすれば、それはきっとドラゴンと称えられるほどの腕利きなのだろう。

 怪物は持っていた右腕をこちらに向けた。鳥の死体が目の前まで迫った。
「俺の代わりにこれを料理しろ」
「えっ……?」

 間の抜けた声を上げ、再び硬直する女。
「料理できないのか?」
「……したことが無いから」
「そんな訳ねーだろ」
「本当よ」

 今度は事実を言ったのに、嘘だと言われた。 この怪物は自分の言う事などはなから全く信用していないのではないだろうか。 ……しかし、空腹には抗えない。
「やり方を教えて頂戴」
「仕方ねーな……」

 女は剣を拾い、鞘に収めた。 そして立ち上がるまで、怪物はそれを妨害して来なかった。今反撃に出ても得るものは無いだろう。

 怪物に連れられて、女は鳥の死体と調理器具の入った箱を持って外へ出た。 時間は昼間。 小屋は森の中にあった。周囲の草木は切り倒されおり、広く光が差し込んでいる。

 この日、彼女は生まれて初めて鳥を捌いた。 捌くことだけでなく、洗うのも、切り分けるのも、火にかけるのも初めてだった。 怪物と鳥を分け合って食べた。 グニャリとした食感で苦味も強く、とても成功とは言えない出来だった。 何度も焼き直し、合間に木の実もつまみながら、なんとか食べきった。 二人三脚ならぬ二人三腕の共同作業だった。

 彼女は怪物を信用できずにいた。 いつ自分がこの鳥と同じ運命を辿るのだろうかとばかり考えていた。 今は物静かなこの怪物が、いつ暴れ出すのか不安でたまらなかった。

 その不安は杞憂だった。 もっと恐ろしい事を言われてしまった。
「夕飯の食材を捕りに行くぞ」

 もちろん、彼女に狩りの経験は無い。 女は三度硬直した。


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