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第2話 見下ろされる怪物

 次の日の早朝。太陽が地平線から僅かに顔を出すまで昇る頃。 女の体調はそこそこ良くなっていた。 夕食の後、疲れてすぐに眠ってしまったからだろうか。 頭も冴えている。これで冷静に状況を整理できる。

 ――彼女は考えた。まず自分の身の安全を確保しなければならない。 今から森を出て元来た道を引き返すのは得策ではない。 森の怪物を一人で相手するのは不可能だ。 昨日出会った人型の怪物のそばにいた方が、他の怪物が近寄りづらくなるはずだ。 すぐには自分を襲わないようなので、逃げる機会はいつか巡って来るだろう。

 自分は怪我人から居候に格を下げられ、居間で寝かされていた。 剣も荷袋も服装も、トカゲの怪物たちに追われる前のまま健在である。 例の人型の怪物はまだ隣の部屋で眠っている。 切り落とされた怪物の右腕は居間の棚の上に置かれている。 その切断面は銀色の平面になっており、切り落としてから一滴の血も垂れていない。 本体側の断面も同じ状態である。 怪物の発言から、銀の混ざった剣でなければこうはならないことが伺える。 さらに、その状態を治す手段は限られていることも分かった。 驚いた様子が無かったのは、少なくとも一度は経験があるからなのだろう。

 あの怪物の弱点は銀の剣と見て間違いない。その剣は今、自分の手中にある。 ……今の自分は、昨日の自分とは違う。具体的には体力が違う。 そこにこの剣さえあれば、今や片腕になったあの怪物と互角に渡り合う事も不可能ではないかもしれない。 あの怪物を服従させて利用できれば、当初の目的を果たすことが出来る。 ――否、それ以外に生き残る道は無い。やるしかないのだ。

 女は怪物の眠っている寝室へ行き、片足で左腕を踏みつけた。 さらにその腕に剣を添えて、怪物を見下ろしながら話しかけた。
「おはよう怪物。昨日の借りを返させてもらうわよ。そこを動かないで頂戴」
「……いきなりだな」

 怪物は目を開けた。既に眠りからは覚めていたようだ。
「あなた、これ以上この剣で斬られたくはないでしょう?」
「そりゃ当然」

 女の威圧に全く応えず、怪物は泰然としている。
「私の要求は、ここ怪物の国の王への謁見よ。あなたも怪物ならその方法が分かるのではなくて?」
「ふーん?」
「さぁ、私を王の下まで案内しなさい」
「何で王に会いたいんだ?」
「あなたが知っていい理由ではないわ。それとも、あなたは王に近い身分なのかしら?」
「いや、別に」

 あまりにも怪物の態度が変わらないので、女は剣を揺らして力を誇示する。
「はっきり答えなさい。案内するの? それとも斬られたいのかしら?」
「どっちも嫌だ」
「くっ!」

 女は怒り、剣の切っ先を怪物の左肩に突き付ける。 昨日は片腕でも不便そうにしていたのだ。 どんなに力を持った怪物でも、両腕を失った不便さには耐えられまい。
「斬られたくなければ、言う事を聞きなさい!」
「だからどっちも嫌だっての」
「そう、斬られたいのね……!」

 剣を持ち上げ、勢いをつけて真下に突き立てた。 残っていた左腕も、右腕と同じように切り落とした――はずだった。

 突き出された剣は床に刺さっただけだった。 腕を踏んでいた足は地面に落ちた。 怪物の左腕は女の足からするりと抜け、こちらに向かっていた。 そしてその手から剣を奪い取った。
「あ……」

 立ち上がって冷めた目でこちらを見下ろしてくる怪物を前に、 女はわずかに後ずさることしかできなかった。 ……剣は返してもらえた。どうやら、この剣を脅迫に使える機会は二度と来ないようだ。


 太陽が地平線から離れた頃。朝食を終えてしばらく経った時だった。
「よし。出発するか」

 早くも北の谷に出発することになった。

 女は剣と荷袋を持っていたが、怪物は何も持っていない。 その代わりに切り落とされた右腕を布と紐で固定している。 一見するとただ布を巻いているだけのようだが、その右腕は動かすことが出来ない。 肩を動かす度に力無く揺れるだけだ。

 女は怪物の後ろを黙って付いて歩く。 森の中の獣道を道なりに進んでいる。 荷袋に入れておいた方位磁針を見るに、おおよそ北へ向かっているようだ。 人間の国との国境からどんどん遠ざかっていく。

 彼女は怪物のことは話に聞いていただけで、実際に見たのは初めてだった。 その恐ろしさと禍々しさだけは人間たちの間では広く知れ渡っている。 あの森を境に人間の姿は消え、怪物の国がどこまでも広がっている。 怪物たちの頂点には怪物の王が君臨している。 そこまでは分かっているが、それ以上の詳しい内情や生態を知る人間は数えるほどしかいない。 少しでも怪物に近づいた時点で命を落とす者が後を絶えないからである。 人間の言葉を達者に使い、物静かで、すぐには人間を襲わないような怪物がいることなど 彼女は知らなかった。

 そして、進行方向に見えているもう一体の人型の怪物。 あのように小さくて弱そうな怪物までいることなど、全く知らなかった。
「おおっ、アニキじゃないっすか!」
「よう」

 小さい怪物が大きい怪物の前にふらりと姿を現し、へらへらと笑いかける。 丸い顔、大きな耳、痩せこけた手足、太い腹、そして女の腹ほどまでしかない背の低さ。 どう見ても自分よりも非力そうだと、 女は呆気に取られた。命が惜しくないのだろうか。
「アニキはこれからどちらへ?」
「これ見りゃ分かるだろ」

 大きい方の怪物は顔色一つ変えず、右腕を外して見せた。
「……えええええーっ!? それ大丈夫なんすかアニキ!?」
「大丈夫じゃないから治しに行くんだよ」
「つまり、北の谷っすね! おいらもお供するっす!」
「はぁ……勝手にしろ」

 小さな怪物が全身を使ってオーバーリアクションで喋る様は、まるで道化師のようだ。 その緩んだ顔が、あからさまに怪訝な顔に変わり女に向けられる。
「ところでこの人間は何者っすか?」
「ああ、俺のしもべだ」
「おいらの後輩っすね!」

 彼女は居候ではなく下僕だと判明した。 黙っていられなかった。腰の剣に手をかけずにはいられなかった。
「あなたの方はどう見ても私よりは格下でしょう!? 分からせて差し上げましょうか!?」
「ひっ、怒った!?」

 小さい怪物は目にも留まらぬ速さで大きい怪物の陰に隠れた。
「暴力はんたーい! 弱者をいたぶるなー!」
「弱者なら強者への態度を改めなさい!」

 身を隠しながらも自己主張を続ける小さい怪物。 本当に弱そうなので逆に手を出しづらいが、苛立ちは募るばかりだ。 いっそ両方まとめて叩き切ってしまおうか。

 睨み合いの最中、遠くから無数の動物の騒ぎ声が聞こえてきた。 女と小さい怪物は驚いてそちらを振り向いた。 大きい怪物は相変わらず無表情のまま首をかしげただけだった。
「今日は少し遅く来たな。お前ら、こっちに来い」

 大きい怪物は獣道をそれて草むらに入っていった。 慌てて追いかける女と小さい怪物。 草むらを掻き分けて進んでいくと、高い岸壁の前に出た。 どうやら断層の一部のようで、表面が大きく削られて山道になっている。

 岸壁の道を進み、森の木々を見下ろせる位置まで登った。 透き通るような青い空が頭上いっぱいに広がっていた。

 森からの音は鳴り止まない。草木が揺れる音と、獣や鳥の騒ぎ声。 その中でも一際大きな叫び声を聞き、女は足を止めた。
「あれは何かしら?」

 指を差した先には、木の葉の隙間から地面が見えていた。 白っぽくて尻尾が大きいオオカミのような動物が三匹ほどいる。 距離があるにも関わらず輪郭が分かるほど大きい。 きっと人間の大人と同じくらいの体長だろう。 何かを食べているようだが、よく見えない。

 大きい怪物は女に合わせて立ち止まった。
「あれはキツネだ。いつも朝に動き出す動物を狙ってこの辺りをうろつくんだ」
「とてもキツネには見えないのだけれど? オオカミではなくて?」
「人間どもからすりゃ、あれも“怪物”なんだろうな」
「……そうね」

 彼女が怪物について知っている事は、すなわち人間にとっての常識となっている事だ。 怪物とそうでない生物の大きな違いは、人間を好んで食すか否か。 人間を狩るために進化した生物と言ってもいい。 大きな体も、鋭い爪や牙も、太い骨や筋肉も、そして高度な知能までもが 全て人間を狩ることに特化している。 だから人間は簡単には怪物には勝てない。 否、勝てないからこそ怪物と呼ばれているのだ。

 女と二体の怪物は再び歩き始めた。
「でかいだけのキツネまで怪物呼ばわりか。便利な言葉だな」
「人間を食べるのでしょう? あなたと同じように」
「人間以外の肉でも生きていける」
「国境を越えて人間をさらったり、住居を襲撃したりするのでしょう?」
「そういう輩も居るな」
「あなたは違うのかしら?」
「今は違う。最近の人間は色々と知恵をつけているから面倒だ。割に合わない」
「どうかしらね」

 彼女には、この怪物が真実を言っているようには思えなかった。 人間を食べるために進化した怪物が、人間を食べなくなって平気なものか。 油断できない。

 ふと、小さい怪物の方に目をやった。 小さい怪物はニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべていた。
「ケッケッケ……お嬢さん、ビビってるんすか?  おいらも怪物の端くれ。人間の肉が大好物なんすよ!  隙を見せようものなら、頭からバリバリ食べちまうっすよ!」

 女は冷めた目のまま視線を前に戻し、ため息をついた。
「キィー! 鼻で笑いやがって! もっと怖がれー!」
「何を怖がればいいのかしら?」
「それは、えーと……ほ、ほらこの牙! どうだ鋭いだろー!」
「あら、こちらの剣の方が鋭いのではなくて? 比べてみます?」
「くそー、道具に頼るなんて卑怯だ! 正々堂々と戦えー!」
「何とでも仰い」
「アニキ、こいつちょっと調子に乗りすぎじゃないっすかねー?」
「あら、他人に頼るのは卑怯よ」
「何とでもオッシャイ……っす!」

 大きい怪物は足を止めて振り返った。そして呆れ返った。
「お前らうるせーな……無駄な体力使うなよ」
「アニキ、こいつ何とかして下さいよー!」
「知るか」
「そんなぁ、アニキー!」

 小さい怪物は大きい怪物に泣きつくも、軽くあしらわれている。 兄貴と呼んでいるのは小さい怪物が勝手にやっているだけだと良く分かる。

 ……大きい怪物と、小さい怪物。女は二体の怪物の方を指差した。
「ところで、あなたたちのことは何と呼べばよろしいのかしら?」

 二体の怪物はきょとんとした顔でこちらを見た。
「名前のことか?」
「そうよ。呼び名が無いと不便じゃない。私のことはマーガレットと呼びなさい」
「……不便なのか?」

 思わぬ反応に、女――マーガレットもきょとんとした顔になった。
「まさか、名前が無いのかしら?」
「有るには有るな。俺はリカレンスって呼び名があったっけな」
「おいらにはトールって呼び名があるっすね」
「……リカレンス? トール?」

 おかしな名前だった。どちらも普通は人名に使わない言葉。 外国人の名前は聞き慣れないものであるのが当たり前だが、 人名と無関係なものとして聞き慣れた言葉が使われると強烈な違和感がある。 この怪物たちと上手くやっていくためにも、呼び名には慣れなければならないのだが、難しそうだ。
「……ええ。そう呼ばせてもらうわ」

 怪物の国の国境が遠ざかっていく。 それと同時に森の喧騒も次第に小さく遠のいていった。 人間の女マーガレット、大きい怪物リカレンス、小さい怪物トール。 一人の人間と二体の怪物は、危険な森を見下ろしながら安全な高台を歩く。


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