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第3話 夜空を飛ぶ怪物

 夜を待っていた動物たちが目を覚まし、森がまた騒がしくなった。 今宵もまた無数の命が一つ、また一つと数を減らしていく。

 夜闇の中を進むのは危険だ。 マーガレット、リカレンス、そしてトールの三者は高台の横穴に腰を下ろした。 横穴の高さはリカレンスが背中を伸ばして立てるほどだが、 およそ二十歩で一周できるほどの広さしかない。 入り口もやや小さく、森の動物から姿を隠す分には困らない。 地面の平らさを見れば何者かの手で掘られたものだと分かるが、それが人間かどうかは判断がつかない。

 トールが小動物の肉や木の実を森から捕ってきた。リカレンスの言う事には忠実だ。 しかし三人前の夕食には少し足りなかった。 リカレンスはそれをマーガレット優先で分配した。 当のマーガレットはそれに感謝する様子は無かったが、 リカレンスの方も彼女の態度に腹を立てる様子は無い。 静かな夕食だった。

 マーガレットは翌日に備えて眠りについた。 怪物のすぐ隣で眠ることには抵抗があったが、疲労を残して明日を迎える訳にはいかない。 抵抗は寝る場所だけ。 横穴の出入り口付近に二体の怪物を追いやり、自分は奥の隅で眠った。


 案の定、夜中に目が覚めた。 しかし目が覚めた理由は、いくつかの案の定の中でも最悪のものだった。

 数え切れないほどの足音が聞こえる。その全てが揃ってこちらに近づいている。 土を削りながら深々と足跡を残す重い足音。

 マーガレットは飛び起きて、置いていた剣を手に取った。 リカレンスはゆっくりと立ち上がり、左の掌をこちらに向ける。 待っていろという合図だ。 そしてそのまま横穴の外に出て見回した。 ……トールは隅で震えている。一緒に震えるのは癪なので気丈に構えていた。

 その時、大きな影が動いた。

 ――ドサリ、と重いものが落ちる音がした。

 リカレンスの頭が忽然と消えた。 残された体の上部から赤黒い液体が溢れ出す。 その体は頭を失っても、ゆらゆらと揺れながら立ち続けている。

 その直後に外から飛んで来たのは、一見すると人間の男のような怪物。 地面につけた両手を離して立ち上がると、マーガレットとほぼ同じ背丈だった。 指先から足にかけて広がる灰色の飛膜。濃い褐色で毛むくじゃらの肌。上を向いた丸い耳。 長く鋭い爪と牙。その数々の特徴はコウモリそのものだ。 しかしそれでいて、長い手足や顔立ちなど人間の特徴も含んでいる。
「ケーッケッケ! 人間のニオイ、見ぃづげたぁ!」

 怪物は潰れた鼻をヒクヒク鳴らし、口を裂けるほど大きく開いて獰猛に笑う。 真っ赤な目がマーガレットを真っ直ぐ睨み付けている。
「いただぎぃ!」

 怪物は足をバネのように曲げて伸ばし、マーガレットに向かって一直線に跳躍した。 マーガレットは剣で突進を防ごうと構えたが、怪物は目の前でピタリと止まった。
「うっ!?」
「食えない物は捨でろ!」

 怪物に剣を握っていた手をわし掴みにされた。手に激痛が走り、剣が手から抜け落ちる。 怪物はそれを確認すると、真上に跳躍した。 両足をマーガレットの肩に乗せ、その長い指を脇まで伸ばして掴み取る。 両腕を上下にバタつかせると、その体が浮いた。さらに外へ向かって一気に加速した。 マーガレットの足を地面に引きずらせながら、怪物は滑空して横穴から出た。 斜め下に降下して森の木にぶつかる――その直前、 すぐに高度を上げ、遥か高い空へと上昇した。 マーガレットの足が地面から離れ、ふわりとした感覚に支配される。 飛ぶ速さは速く、夜風がカーテンのように全身を押してくる。
「このっ……離しなさい! 降ろしなさい!」
「嫌だ! 落とじだら横取りざれる! ああ、生きた人間の肉は久々だぁ!  早く巣に戻りだい……早く食いだい、早く食いだい! ゲギャヒャヒャヒャ!」

 みるみる内に高台の横穴から離れていく。このまま大人しくしていては確実に食われる。 がっちりと肩を掴まれているので腕が自由に動かせない。 マーガレットは一か八か、ぶら下がった自分の両足をそろえて伸ばし、左右にグルグルと回した。 怪物を引っ張って全体の重心を滅茶苦茶に動かしたのだ。
「ギャッ! 暴れるな!」

 体が傾いた。怪物は必死に羽ばたいて姿勢を修正する。 今度はそれに方向を合わせて勢い良く重心を移動させるマーガレット。 蛇行の幅が次第に大きくなっていき、高度も下がる。

 怪物は全身をバタつかせ、顔中から体液を撒き散らしながら叫ぶ。
「嫌だ! 食べだい! 人間が食べだい!」
「食べさせるものですか!」

 マーガレットの肩を掴んでいた足が緩んだ。 すぐに腕を回してその左足を掴み、自分の両足を振り上げ、そして思いっきり振り下ろした。
「ギアアアアアアアア!!」

 姿勢がほぼ垂直に傾いた。掴まなかった右足が肩から離れた。 重心が体の中央から大きく外れ、怪物の飛膜で支えることができなくなった。 まるで真横へ落ちているかのように旋回しながら一気に高度が下がった。 高台の岩場がぐんぐん近づいてくる。

 怪物は最後まで羽ばたいて抵抗していた。 マーガレットは怪物の両足を掴んで重心を戻し、その抵抗を手伝った。 落下の速度は落ち、角度も水平に近づいた。 それでも高度が上がることは無く、高台の地面に滑り込むように激突した。 マーガレットと怪物は地面に投げ出され、落ちてからも長い距離を滑った。

 頭はとっさに守ったが、肩から足まで打撲の痛みがにじみ出るように伝わる。 両者はその痛みにうめきながらもじりじりと起き上がった。

 マーガレットは身震いした。 この怪物は、リカレンスの首を切り落とすほどの強力な爪と筋力を持っている。 首を切られたリカレンスが助けに来るなどありえない。 剣もその鞘もあの横穴で落としてしまった。革の鎧の防御力は気休め程度にしかならない。 腰のベルトにナイフがあるが、これを手に取って何になると言うのか。 相手を逆上させてしまえば、むしろ身の危険が高まるのではないだろうか。 では何もしなければ助かるかと言えばそれも違う。 次に相手は、また飛行を邪魔されないようにこちらの動きを止めにかかるに違いない。 何もしないくらいなら――そう思い、マーガレットはベルトからナイフを取り出した。

 怪物はふらふらと立ち上がった。 マーガレットもゆっくりと立ち上がる。震える手でナイフを怪物に向け、話し合いを試みる。
「本当に私を食べるつもり?」
「オマエは人間……だがら、オレは、オマエを食う! ああ、食いだい……人間……」
「人間以外の肉でも生きていけるのでしょう? どうして人間を食べるの?」

 それは昼にリカレンスが言っていた言葉。 事実なのかどうかずっと疑っていた言葉だった。それが事実ならどんなに救われることか。
「生きていげる……生きていげるだげだ! そんなのづまんねぇよ!」

 怪物は周囲に唾液を撒き散らしながら叫んだ。
「人間の肉が食いだい! オレが食いだいのは人間の肉だげ! 人間の肉がオレの楽じみ!  他の肉じゃあ満足でぎねぇんだよ!! だがら人間がぁ!! 食いだいぃ!!」

 怪物は前のめりになり、よろめきながら、一歩ずつこちらに向かって来る。 怪物の口からは大粒の唾液がぼたぼたと垂れ続けている。それを怪物が踏みつけ、さらに広く飛び散る。

 マーガレットは震える足を必死に持ち上げて後ずさった。
「やっぱり人間は単なる食料なのね……」
「教えでやるよ! 人間の味を! お前にも食わぜでやる! ギャアヒャヒャヒャヒャヒャヒャア!」
「結構よ!」

 説得は不可能だった。説得を続けられる精神状態ではなくなってしまった。 怪物も、そしてマーガレットも。

 怪物の歩く速度がどんどん速くなっていく。 一歩踏み出すごとに大きくよろめき、体のあちこちを岩壁にぶつけながらも向かって来る。
「オマエ、知っでるか? 人間の体で一番ウマい部分!」
「それ以上喋るな! 近寄るな!」

 怪物は足を止めた。そして膝を曲げ、両手を地面につけた。 長い舌を出して左右の牙を舐める。濁った唾液の塊が地面にぼとりと垂れる。
「――脳ミソだっ! 食わぜろ!」

 膝を勢い良く伸ばし、怪物は宙に跳んだ。両脇の飛膜が月を隠す。 そのまま空中から爪を向けて急降下してくる。 マーガレットは立ちすくんだままナイフを構える。歯を強く食いしばって目を見開いた。

 その時――バリバリと耳をつんざく轟音が突然近づいてきた。
「ギャッ!?」

 怪物はあさっての方向へと落下した。

 マーガレットはそれを見ていた。落下したのは怪物だけではない。 腹から落ちた怪物の背中に乗っている、長い木の枝のような物――それは脚だった。 同じような脚が六本ある。 その背中は黒くざらついていて、古びた鎧のよう。 頭部には体と同じくらい長い触覚が二本、そして鎌のような大アゴが左右に二本。 その姿は書物で見たことのある――カミキリムシそのもの。 しかしその大きさは並外れている。 マーガレットよりも二倍近く大きい体を持っていたのだ。

 巨大なカミキリムシは、右側の前脚と中脚でコウモリの怪物を踏みつけていた。 背中からグチャグチャと気味の悪い音を響かせながら、羽を畳んでいる。
「離ぜ! その人間はオレのエモノだ! オレが食うんだ!」

 踏みつけられた怪物は騒がしく暴れていた。 しかし肩と腰が地面に押さえつけられているせいで微動だにできていない。
「ギーッ」

 カミキリムシは何か硬いものをこすり合わせるような、得体の知れない音を放った。 さらにアゴをガチガチと打ち鳴らしている。

 マーガレットはさっきから足がすくんで動けないでいた。 手を震わせながら、ナイフの向きを怪物からカミキリムシの方へと変える。 現状が理解できない。人間という獲物を奪い合っているのだろうか。 だとすれば、敵が増えたことになる。二体の怪物をナイフ一つで相手しなければならない。

 ――いや、違う。怪物は二体ではない。

 周囲から無数の足音が聞こえた。先ほど横穴の中で聞いた音と同じだ。 何十人もの人間が力強く地面を蹴って歩くような音。 その音が、垂直なはずの崖を登り、こちらへ近づいてくる。

 足音の主は崖の下から現れた。 まるで塔のように巨大な、一体の虫の怪物。 真っ赤な長い触覚と、おびただしい数の真っ赤な脚。 黒く輝く甲冑のような背中に、ピンクの腹が守られている。 長い体をくねらせ、マーガレットと怪物の周りを囲むように歩いていく。 その特徴はムカデそのもの。 その大きさは、そこにいるカミキリムシとは比べ物にならない。 横幅も厚みも、マーガレットの身長より大きい。 長さに至っては、マーガレットと怪物の周りを少し離れて取り囲んだにも関わらず、 尻尾がまだ崖の下に隠れている。

 無数の脚が地面を削る。脚が持ち上がる時には砂が舞う。 前の脚が上がり、少し遅れて後ろの脚も上がり、下がる時も同様に、規則正しく動く。 その様を見てマーガレットは強烈な寒気を感じた。嫌悪感が恐怖感を上回った。 それから逃れようにも、取り囲まれている。どちらを向いてもその姿が見えてしまう。

 コウモリの怪物の叫び声が大きくなった。
「離ぜ! 逃げる! 逃げざぜろ! エモノはくれでやる!」
「ギッ」

 コウモリの怪物はカミキリムシの脚から逃れ、地面を転がった。
「ちぐしょー!」

 コウモリの怪物は弾けるような勢いで空に飛び立ち、夜の空に消えて行った。

 残されたのはマーガレットと、二体の虫の怪物だけ。 マーガレットの手にあるナイフは大きく震え、向きすら定まっていない。 手だけでなく、足も、歯も、目も、心臓さえも震えていた。

 ムカデの無機質な頭部がこちらを向いた。 のっぺりとした頭部から大きな触角が伸びている。どこが目なのか分からない。 二本の牙が左右に開閉し、奇妙な音を放っている。 頭の中が絶望で埋め尽くされていた。 自分はこのまま抵抗できずに食べられてしまうのだろう。

 その時――さらに足音が増えた。今度は二つ。 マーガレットは恐る恐るそちらを見た。 大きい影と小さい影が、ムカデの向こう側から歩いて来ていた。 ――リカレンスとトールだった。
「よう。生きてるか」

 マーガレットは自分の目を疑った。 リカレンスの頭はちゃんと体の上にある。それどころか、首には傷一つ残っていない。

 次にマーガレットは耳を疑った。
「ご無事で何よりです」

 先ほどムカデが発し、今再び発した音は、人間が使うのと同じ言葉だったのだ。 マーガレットの体の震えはピタリと止まったが、ナイフは地面に落ちてしまった。

 最後にマーガレットは頭を疑った。 しかし、それは長く続かなかった。 視界がぼやけ、そして暗くなっていく。空を飛んでいた時の、あのふわりとした感覚が戻ってくる。

 マーガレットは意識を失った。


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