時は少し遡り―― マーガレット、リカレンス、そしてトールの三者は高台の横穴で眠っていた。
真夜中、リカレンスは聞き覚えのある足音に気付き、目を覚ました。
数え切れないほどの足音が聞こえた。その全てが揃ってこちらに近づいている。
土を削りながら深々と足跡を残す、ザクザクという足音。
「て、敵襲!?」
マーガレットが奇声を発しながら飛び起きた。 置いていた剣を素早く手に取り、いつでも戦えるように構えている。 無理も無い。 この地に初めて足を踏み入れたのならば、この音は恐怖でしかないだろう。 トールが隅で縮まって震えているのは……いつもの事だからどうでも良い。
リカレンスは溜め息をついた。そしてゆっくりと立ち上がり、横穴の外に向かった。
その時、気付いた。近づいてくるのは足音だけではない。 足音に紛れて聞こえてくる音。 夜風を切り裂いて飛んでくる音――コウモリの怪物。
リカレンスが上を見た時にはもう遅かった。 既にコウモリの怪物は目の前に迫っていた。 咄嗟に伸ばした右手はぐにゃりと押し返された。 鋭い爪の一閃がリカレンスの首を横切る。視界が高速で回転する。 首から下の感覚が無くなる。首が熱い。目が回る。
リカレンスの頭は地面に落ちた。そこで視界の回転は止まった。
首を回せない。見えるのは横穴の外だけだ。
「ケーッケッケ! 人間のニオイ、見ぃづげたぁ! いただぎぃ!」
コウモリの怪物の叫び声が聞こえた。
続いて地面を蹴る音。叫び声。剣が落ちる音。バサバサと羽ばたく音。
そして、大きな影が横穴から出て行くのが見えた。
怪物がマーガレットを足で掴んで飛び去っている。
月に照らされる夜の空へ、その姿がどんどん離れて小さくなっていく。
「あー、びっくりした。こっち来るかと思ったっす」
トールがぺたぺたと歩いて近づいてきた。
「大丈夫っすかアニキ? ……あの女、連れて行かれちまいましたね。
まだ殺されてはいないみたいっすけど」
「……」
リカレンスは口を動かしたが、声が出ない。肺が無いせいだ。
ぬるりと生温かい感触が地面から伝わった。自分の体から血が出続けている。 遠くへ遠くへ流れようとし、頭を押してくる。
リカレンスが目を閉じて集中すると、その血の流れがピタリと止まった。 かと思うと、一斉に流れの向きを変えた。 その先にあるのはリカレンスの頭。 首から下の体が倒れ、血溜まりに重なった。 頭と体が血の流れに乗り、まるで磁石のようにお互いを引き寄せ合い、そして衝突した。 全身が無秩序に痙攣する。 地面に落ちた血がジュルジュルと音を立てて首の切れ目に入り込んでいく。
やがて、リカレンスの体はすっかり元通りになった。――切断された右腕を除いては。
「ヒューッ。さすがっすアニキ! 傷一つ無い!」
トールの方を見向きもせず、リカレンスは横穴の外を見回した。
先ほどから、あの足音はどんどん大きくなっている。
もう間近まで来ている。――“あの怪物”が。
「そこにいるのか?」
リカレンスは岩陰に向かって声を張った。
返ってきたのは、何かが軋んでいるような音。
注意深く耳を傾けなければ分からないが、言葉を発している。
「いますいます。挨拶が遅れましたね。こんばんは」
声の主が岩陰から現れた。
リカレンスとは比べ物にならないほど大きいムカデの怪物。
見えているのは頭部だけだが、それだけでも既にリカレンスに匹敵する大きさだ。
黒くツヤのある背中の甲殻が月の光を反射して妖しく輝いている。
「さっきコウモリ野郎に連れがさらわれた。助けてくれるか?」
「ヤツですね。お任せ下さい」
言葉を交わすと、ムカデの怪物は体をひねって再び岩陰に姿を隠した。 何やら向こうで軋む声が聞こえ、そしてバリバリと耳をつんざく音が聞こえた。 虫の話し声と、そして羽音。 また別の巨大な虫が岩陰の方から飛び出し、横穴の前を横切った。カミキリムシだ。 コウモリの怪物が飛んで行ったのと同じ方向へ向かっている。
ムカデの怪物が再び岩陰から顔を出した。リカレンスは声をかける。
「助かりそうか?」
「まだ生きているなら。確かヤツの名は、サースト……でしたっけ。
獲物を生きたままゆっくり味わうために自分の巣に閉じ込めようとする……という噂です。
それが本当ならば殺しはしないのではないでしょうか」
リカレンスはカミキリムシが飛んで行った方を見た。 かすかにだが、今まさに高台の岩場に向かって横殴りに落下している影が見える。
トールが横穴から出てきた。マーガレットが持っていた剣と荷袋を引きずっている。
「行くんすか?」
「丁度進んでいた方向だからな」
「やれやれ。甘いんすねぇ」
二体の怪物は歩き出した。歩き出してすぐ、横から軋んだ声がかかった。
見れば、ムカデの怪物が自分たちを追い越しながら隣を歩いていた。
「乗りますか?」
「……気味が悪い」
「あ、酷いこと言いますね。置いて行きますよ?」
「できればそうして欲しいが……」
「では僕は急がせてもらいますね」
ムカデの怪物は会話をやめて足を速めた。
対してリカレンスは足を止め、トールの横腹を左手で掴んだ。
「ぐえっ!?」
そのまま跳躍し、ムカデの怪物の背中に乗った。
リカレンスの巨体が踏みつけても、その黒く硬い皮膚はびくともしない。
「やっぱり乗るんですね」
「歩くよりはマシだからな」
「相変わらず無愛想ですねぇ。たまには素直に喋りましょうよ」
握っていた左手を開くと、解放されたトールは激しく咳き込んだ。
「アニキ……げほっ、急に腹を掴まないで欲しいっす……うぉげほっげほっ」
「……」
ムカデの怪物はマーガレットのいる方へ向かって進んだ。
左右の脚が激しく動き、ガタガタと揺れる。乗り心地は最悪だ。
しかし、ただ歩くよりもずっと速い。
振り落とされないようにムカデの背中に手をつき、到着を待つだけだ。
しばらく進むと、ムカデの怪物の動きは止まった。到着したようだ。
マーガレットとコウモリの怪物が落下した地点はすぐ近くだった。
ムカデから降りてマーガレットの元へ向かった。
マーガレットは砂埃だらけだったが、ほとんど無傷のようだ。
遠くの空にコウモリの怪物が逃げていく姿が見える。
「よう。生きてるか」
「ご無事で何よりです」
リカレンスとムカデの怪物はマーガレットに声をかけた。
マーガレットは真っ青になって、この世の終わりでも見たかのような形相でガタガタ震えていた。
「……えっ? な、なな、何が……どう、なって……」
言い終える前に震えが止まった。 そして一瞬白目をむいたかと思うと、糸の切れた人形のように後ろへ倒れた。
リカレンスはマーガレットのそばへ歩み寄った。 しゃがんで顔を覗き込む。そして顔を軽く二、三回はたいた。 ……何の反応も無い。ただ苦しそうに寝息をたてるばかりだ。
ムカデの怪物もマーガレットの顔を覗き込んだ。
「僕のせいでしょうか?」
「そうだな。間違い無い」
「うう、僕ってやっぱり怖いんだなぁ……」
「見下されるよりはずっと良いだろ」
「嫌ですよ。怖がられないように、ずっとダイエットしてるくらいなんですけど……」
「……」
果たして痩せれば小さくなるのだろうか。否、細くはなっても短くはならないに決まっている。 しかし今はそんな事はどうでも良い。
ここで彼に会えたのはラッキーだ。長い旅路を一気に縮めることができる。
「お前の集落まで乗せて行ってくれ。三人だ」
「オーケーです」
リカレンスは左腕にマーガレットを抱えて、ムカデの怪物に飛び乗った。
落ちていたナイフはトールに拾わせた。
「おいらの時と扱いが違うっすよ」
「こいつはただの人間だからな」
「おいらだってただのか弱いゴブリンっすよ!」
「そうだな。弱いな」
「ぐっ……や、やっぱり強いゴブリンっす!」
「じゃあさっきの扱いで正しいな」
「……そういう事にしといてやるっす」
リカレンスはマーガレットをムカデの背に降ろした。
「お前は先にお帰り」
「ギーッ。了解」
ムカデの怪物が一声かけると、カミキリムシの怪物は一足先に進行方向へと飛び去って行った。
「いいですか? 出発しますよ」
「いいぞ」
「いいっすよ」
「それじゃあ、出発です。ちゃんと掴まっていて下さいね」
「おう」
「ういっす」
発進前の挨拶を軽く済ませると、ムカデの怪物は歩き始めた。 やはり揺れる。そして坂道では傾く。段差では跳ねる。 落ちないようにするだけでかなりの労力を要した。果たして歩くのとどちらが楽だっただろうか。
巨大なムカデが夜の大地を切り裂くように闊歩する。 連なる甲殻が月明かりを反射し、まるで無数の月を背負っているようだ。 無数の足と黒い鎧が列を成して進んでいく。 夜の森の中であっても、その列を崩そうとする者はいなかった。