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第7話 水面を揺らす怪物

 ゴブリンのコロニーのさらに外れ、砂利が敷き詰められた静かな川辺。 川のせせらぎと鳥の声が今日も平和を告げていた。
「はぁ……」

 リカレンスたちと別れたトールは川辺をふらふらと歩き回っていた。 巨大なカミキリムシが後ろから這って付いて来ている事など気にも留めずに。
「はぁー……」

 何度も溜め息が出る。 彼の胸中は、その情けない風貌とは裏腹に複雑だった。

 ――あのコロニーには、まだ胸を張っては戻れない。

 トールは立ち止まり、足元の小石を拾う。肩の上まで持ち上げ、川に向かって投げた。 小石は川の手前側の水面へとまっすぐ落ちていった。

 もう一度小石を拾い、投げる。拾って、投げる。 左手でも投げてみる。両手で同時に投げてみる。そしてやはり右手だけで投げる。 水面に広がった波紋は、川のふちに飲み込まれて消えていく。

 足元にはいくらでも石がある。投げても投げても無くならない。 拾って、投げる。拾って、投げる。投げる。投げる。投げる。
「……はぁ」

 投げた小石の数を数えられなくなった頃、トールは座り込んだ。 たった今何度も揺らしたはずの、静かな水面をじっと見つめた。 地面の砂利に手を着くが、もう拾って投げる気は起きない。

 トールが狙っていたのは、水面を揺らすことでも、水切りでも、ましてや魚捕りでもない。 ただ川の向こう側へ石を投げようとしていただけだ。 しかし、一つも届かなかった。全ての石は水面を揺らしただけだった。

 ゴブリン族は人間に非常に近い種族だ。 二足歩行でき、手先が器用で、知能もそれなりにある。 しかし決して人間と共存できない。その理由は、ただ非力だからだ。 人間の子供でももっと腕力がある。それは覆ることの無い種族の差。 どんな言葉も力でねじ伏せられ、押され、奪われ、疎まれる。 誰からも助けられず、誰を助けることもできない。誰からも認められず、誰からも必要とされない。 だからゴブリンたちは、人間のいない土地しか選べない。

 トールはゴブリン族の中でも特に長身だった。 とは言っても、リカレンスやマーガレットには見分けられないほど僅かな差なのだが。 だからこそか、行商人が語った数々の話の中でも戦士の話には特に強く惹かれた。 強くなれば、皆に認められ、必要とされる。 誰かを助けることができる。誰かに言葉を聞かせることができる。

 リカレンスとの出会いはトールにとって奇跡だった。 その強さを見習うため、何日もかけて弟子入りを交渉した。 強くなるためなら何でもやった。何十日も挫けず奮起した。 そして、ようやく強くなった実感を得るまで至った。

 ……しかし、未だに小石を川の向こうへ投げることすらできない。 成長の実感が泡のように溶けていった。
「ギギッ」

 カミキリムシが二本のアゴで手ごろな小石を持ち上げた。そしてトールの方へ差し出す。
「……いらないっすよ、そんなもん」
「ギー?」

 首をかしげたカミキリムシは、トールを真似て石を川へ放り投げた。 ボチャリと大きな音を立てて、水面が激しく波打った。 沈み始めた太陽がゆらゆらと揺れる。 太陽に雲が迫り、次第に辺りも暗くなっていく。

 日光が弱まり、水面に反射した景色が色濃くなった。 そこに新しく映った影が三つ。その実体は向こう岸にいた。 すらりと長い体に、短い手足と長い尻尾。さらには二足歩行。 またしてもトカゲの怪物だった。今度は三体の集団だった。 既にこちらを真っ直ぐ睨んでいる。 ――かつてない恐怖だった。

 周囲を見回しても他に誰もいない。巨大なカミキリムシが一匹いるだけだ。 トールは青ざめ、息を呑んだ。

 トカゲたちはトールの姿を確認すると、顔を見合わせて話し始めた。
「どうする?」
「まだ早いな」
「邪魔なら潰すが」

 短く喋るトカゲたち。こちらに聞こえても構わないというような声量だ。
「うむ……様子見か」

 話し終わると、トカゲたちは川沿いに歩き始めた。 向かう先にあるのは……トールたちゴブリンのコロニーだ。

 トールはずっと震えていた。 足先から頭まで、全てが勝手に動いていた。 あの怪物が一体でもこちらに跳んで来たら、ひとたまりもない。力の差があり過ぎる。 頼れる武器も無い。向こう岸にいては先手も取れない。 逃走も防御も、ましてや反撃など一切通用しない。 今出来る精一杯の策は、相手の敵意が向かないようにする事だけだ。
「ギーッ。トカゲ……」
「だ、黙るっす……」

 トールは震えながらもトカゲたちの動きを追い、じわりじわりと歩みを進めた。 足は固まり、腰は引け、肩は跳ねる。 その動きは明らかに感づかれている。三体の内一体がこちらをずっと目で捉えて離さない。 圧倒的な力の差があるからこそ、注意はされても警戒はされていない。 このバランスは、少しでも害意を見せればあっという間に崩れるだろう。 それでも、歩みを止める訳にはいかない。 今やるべき事は、ただ震える事ではない。歩いて後を追う事でもない。

 長い間歩いた。鼓動が早まったせいで実際より長く歩いたように感じる。 日も傾き始めている。夜の闇がすぐそこまで来ている。

 コロニーにある住居までかなり近づいた。そこで、恐れていた事が起きた。

 子供のゴブリンたちが三人、一緒に歩いて川岸を探っていた。 これから起こることなど知らず、楽しげに遊んでいた。

 それを見たトカゲたちは、ニマリとほくそ笑んだ。 足音を抑えつつ、真っ直ぐ歩み寄る。先程と違い、小声で何か話し合っている。

 トールにはトカゲたちの目的が分からなかった。 しかし、その場にいる誰よりも恐怖していた。 強い者と弱い者。その出会いは何よりも不条理だ。 ねじ伏せられ、押され、奪われ、疎まれ、最後には――
「ふんっ」
「うぁっ……!」

 トカゲがゴブリンの子供を蹴った。子供の体は地面に叩きつけられ、砂利が撒き散らされる。 それを見た他の子供たちの顔は恐怖一色に染め上げられた。 対してトカゲたちの顔は、満足げな笑みを浮かべていた。吊り上った口角から牙がむき出しになる。
「ダメじゃないか、こんな遠くで遊んでいたら……ケッケッケ」
「家に帰ってパパとママに教えてやりな。外には怖い怪物がいるんだってなぁ!」

 トカゲたちは口々に子供を責め立てる。
「あ……う……」

 子供たちは青ざめた顔で硬直していた。心はとっくに逃げ始めていても、体が言うことを聞かない。
「どうした? 早く帰らないと食っちまうぞ?」
「また蹴らないと分からないんじゃないか? ケケッ」
「ああ、そうだな。じゃあもう一回……いや、次は一人くらい殺してやった方が分かりやすいか?  ケッケッ!」

 トカゲが一体、子供たちに歩み寄った。もったいぶる様にゆっくりと、じっくりと。 倒れた子供は逃げようと足を動かすが、虚しく砂を均すだけだった。

 ――それを見ていたトールの心に、恐怖とは別の感情が沸き上がった。

 気付けば、小石が放たれていた。
「いてっ……」

 当たった。トールが投げた石が、トカゲの肩に。
「逃げるっす! 早く!」
「う……うわっ……!」

 トールの叫びを聞いた子供たちはようやく足を動かし、走り出した。

 トールは立て続けに叫ぶ。
「その子たちに手を出すな……っす! つ、次は本気で投げるっすよ!  怪我したくないなら今の内に立ち去るっす!」

 そう叫びながら、石を掲げて見せ付ける。

 確かにトカゲたちは子供を追いかけずに立ち止まっていた。 しかし、それもほんの僅かな間だけだった。
「手を出したら……どうするって?」
「これを脳天にブチ当てればイチコロっす! ハッタリじゃないっすよ!」
「やってみろよ、ゴブリン風情が! ケーッケッケッケ!」
「ぐっ……」

 トカゲのおぞましい叫び声が全身を震わせた。それでもトールは石を掲げ続けた。
「そうだ、丁度良い……あのガキどもを皆殺しにする所を見せてやるよ」

 そう言うと、一体のトカゲが子供たちを追って歩き始めた。それだけではない。
「お前を動けなくしてからな!」
「いっ!?」

 別のトカゲが跳躍し、川のこちら側まで飛び越えて来た。
「ギギギッ!!」

 カミキリムシが躍り出て応戦する。 大きなアゴを突き立てて何度も攻撃したが、素早い動きで避けられる。 アゴが空を切った隙に、腹に鋭い蹴りの一撃を受けて弾き飛ばされてしまった。

 自分の倍の大きさはある怪物が、トールの目の前に迫った。
「悪く思うなよ!」
「ギャアアアアァァァァーーー!!!!」

 そのまま、二本の腕で押さえつけるように爪を突き立て――られなかった。

 パン、と乾いた炸裂音が響き、トカゲの怪物の上半身が大きくのけ反った。 数歩よろめき、そのまま砂利の上に倒れこんだ。

 カラン、と何かが落ちた音がした。丸い石が先端に括り付けられた弓矢だ。

 さらに遠くから地鳴りが響いた。土砂崩れのような重々しい音だった。 音の方向、向こう岸を見た。子供を追いかけていたトカゲが足を止めている。 その前にあるのは、黒く大きな岩が無数に集まった塊。 子供たちとトカゲの間を遮るように立ちはだかっていた。 連なった岩が腕のように伸び、独りでに動いた。拳がトカゲの芯を捉え、一撃でなぎ倒した。 まるで岩が意思を持っているかのようだ。
「起きなさいな、トカゲさんや」

 トールの横から足音と声が聞こえた。大人の女の声だった。
「今撃ったのは研いでいない石の矢じり。次に撃つのはこっちの研いだ鉄の矢じり。 まだ食べ足りないならご馳走するわよ?」

 人間の女性。やや色黒な肌に厚い唇。肌を多く露出する装束。行商人のジャスミンだった。 手に持っていたのは、木と鉄で組まれた機械弓。それも両手でようやく抱えられるほどの大きさだ。 倒れているトカゲに矢を向けて構えている。

 トカゲは頭を押さえながら上半身を起こした。指の間から赤い血がべっとりと流れ出ている。
「何だソレは……武器なのか……」
「そうよ。怪物を殺すための、ね」

 ジャスミンは機械弓を向けたまま、毅然と構えている。
「脅しているつもりか……こっちにはまだ人員が……」

 トカゲはそう言って向こう岸に目をやった。 倒されていないもう一体のトカゲは、岩の前で倒れていたトカゲの肩を抱え、遠くへ離れていた。 立ち止まり、こちらの様子を窺っている。
「……ああ、そうか。もうここに用は無いな。ケケッ。余計な怪我をする前に逃げてやるよ」

 そう言うとトカゲは立ち上がり、弱った足取りでコロニーと逆の方向に走り始めた。
「逃げるのには賛成だよ。でも、まだもてなし足りない子がいるんだよ」

 ジャスミンは、今構えていたのとは別の小さい機械弓をトールに押し付けた。
「ほら。押さえたままハンドルを回すの。そしたら両手で押さえて……」
「えっ!? な、何なんすか!?」

 トールはされるがままに手を動かされ、気付けば機械弓を構えていた。
「少しだけ上を狙うのよ。トリガーはここ。さ、撃つかどうかはあんたが決めなさい」

 ジャスミンがトールから一歩離れた。

 矢の向いた先にはトカゲの怪物がいる。 このトリガーを押せば、矢が飛んでいくのだろう。 先程は手も足も出なかったトカゲの怪物に、文字通り一矢報いることができるのだろう。 ただこのトリガーを押すだけで――
「姐さん」
「ん?」

 トールは、まだ固まったままの顔でぎこちない笑みを作った。
「まずは木にでも撃ってみて練習するっす」
「……そう。ま、あたしは止めないよ」

 トールは川の方へ向き直し、向こう岸の木を見据えた。 冷静に狙いを定め、トリガーを引いた。 風を切る音が響き渡った。飛ぶ矢に引っ張られ、前に転んでしまった。 地面にぶつけた鼻をさすりながら向こう岸を見ると、狙った木の樹皮が少し剥がれていた。
「惜しい、外れね。撃つとき左に傾いたわよ」

 ――そうだ。ここで矢を撃ってもダメなのだ。 矢がトカゲに当たるかどうかは分からない。 しかし、石は当たっていた。自分はもう矢を撃っていた。 だから、今から撃つ矢に意味は無い。 あの時自分を動かした感情は、この引き金を動かそうとはしない。 まだ確信には至っていないが――トールは笑みを浮かべて言った。
「いや、これはきっと当たっていたっす」

 その表情を見たジャスミンは柔らかく微笑み、トールの後頭部を軽く叩いた。
「……なるほど。それもまた一つの選択ね」

 二人はもう一度川上の方に目をやった。トカゲの怪物たちの姿はそのまま遠くへ小さくなっていた。
「その弓は餞別代わりに、分割払いで売ってあげる」
「取る物は取るんすね」
「当たり前よ。あたしは“行商人”なんだから」

 太陽は沈み、冷たい風が流れ込む。彼女が赤い夕日に照らされたのは、ごく一瞬の出来事だった。

 リカレンスとマーガレットが向こうから走ってきた。 緊張した様子で辺りを見回していたが、何も無いことを確認すると息をついた。
「何だ、もう大丈夫なのか」
「何よ、何も無いじゃない……走るんじゃなかったわ……」
「アニキ、来てくれたんすね!」

 飛びつくトール。振り払うリカレンス。白い目を向けるマーガレット。 日は落ちたが、訪れた夜は穏やかだった。


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