降りしきる雨の中、ゴーレムは進む。
岩を車輪にして転がしながら、さながら馬の無い馬車のように、マーガレットとジャスミンを乗せて。
岩の屋根が雨を遮り、岩の壁が怪物の戦意を削ぎ、岩の車輪が怪物の国の外へと二人を運ぶ。
長い長い道のりが、静寂へと変わっていく。
「…………」
「…………」
「それにしても、ゴーレム……実在していたなんて、信じられないわ」
「ん、ようやく落ち着いたわね。ついさっきまでこの世の終わりみたいに取り乱していたのに」
「そのことは忘れてちょうだい」
「あぁリカレンス……どうして私達が離れ離れにならなければならないの……」
「言葉も声色も仕草も何もかも間違ってるわよ! そういうのやめなさい!」
「うふふ。やっぱり女の子は元気が一番ね」
「もう……」
「…………」
「…………」
「あの……」
「何だい?」
「私のこと、どこまで知っているの?」
「全部よ」
「ぜっ……!?」
「ぜーんぶお見通し」
「……冗談ならいい加減にやめて頂戴」
「あら、あたしはウソなんてつかないわよ」
「さっきのアレを除いて、と言い忘れているわよ」
「ええと、本当は何と言ったんだったかねぇ?」
「……言わないわよ」
「まぁ、それはさておき。三日前に国境沿いまで戻ってみたら、あんたの連れから話が聞けたのよ」
「連れって……まさか!」
「ふふっ。あっちはあっちで他の者が助けてくれたんだってね」
「一体誰が?」
「人間ではない、と言っていたね。
オオカミのようなキツネのような……とにかく四つ足の何者かがトカゲを撃退したんだとさ」
「まぁ、そうでしょうね。あの森はそういう場所だもの」
「そしてあんたを助けたのはあのリカレンス。こんな奇跡があるなんてね」
「……奇跡、なのかしら」
「奇跡なのよ。どちらかが死んでいれば、今頃最悪の状況になっていた」
「そんな、それくらいで最悪だなんて……」
「……あんた、まさか自分の立場を忘れちゃいないだろうね」
「それは有り得ないわ」
「いいや、忘れてるね。でなければ、あたしが連れ戻しに来たりはしなかっただろうさ」
「…………」
「あんた、もしかして、こう思っていなかったかい?
命を投げ打ってでも果たすべき使命がある……なんて、のぼせた青臭い事を」
「…………」
「そんな事を言って許されるのは、死ねば喜ばれるような人間だけさ。
あんたはそんな人間に成り下がるような事をしたのさ」
「そんな、大袈裟な……」
「そんな大袈裟な運命を背負っているのでしょう、あんたは」
「運命……」
「例えどんな事があろうとも、生き続けなければならない。
何がその身に降りかかろうとも、死を選ぶことだけは許されない。
……あんたはそれを不幸だと思うかい?」
「…………分からないわ」
「死んだ時に、別の誰かが喜ぶとしても?」
「その時が来たら、不幸に思うかもしれない」
「来るのよ。あんたが考えを改めない限り、確実にね」
「そんなの、今から考えたって……」
「そこで考えるのをやめて、それで何が変わるってんだい?」
「…………」
「あたしはあんたを死なせたくない訳じゃない。
ただ、誰かに喜ばれる死に方を自ら選ぶような、そんな馬鹿な人間を見たくないだけよ。
死に際に誰かの喜ぶ顔なんて目に入ったら、あんたは絶対に後悔するわ。
……人は、他の誰かの涙無くして幸せに死ぬことなんて、できない、のよね……」
「ジャスミン……?」
「……全く。変な事を……思い出してしまったよ。いい加減に忘れたいのにねぇ」
「ごめんなさい、私……知らずに何か失礼を……?」
「謝るんじゃないよ。あんたが何も知らないのは、あたしが教えないせいなんだから」
「…………」
「…………」
「何か思い出したと言ったわね。あなたは、その過去を一人で背負うつもりなの?」
「何さ。誰かに聴かせるような大層な話じゃないよ」
「その……例えば、もしも、仮に、私に話して楽になるなら……」
「全く、あんたも趣味が悪いねぇ」
「い、嫌ならいいの。そんなつもりは決して……」
「はーあ。こんな小娘にここまで言われるなんてねぇ。あたしもまだまだってことね」
「あの、その、ご、ごめんなさい……」
「また……そんなに簡単に謝るんじゃないよ。こっちが悪いことしてるみたいじゃないの」
「う……」
「……話すよ。でも、あんたにはどうしても聞かせたくない下りもあるんだ。そこは省くけど、許しとくれよ」
「ええ、結構よ」
――昔々ある所に、貧しさから国内を転々とする母親と娘がいたのさ。
父親はとっくに死んで、母親は病気で満足に働けず、
代わりに娘が必死で働いて生計を立てていた。
誰にも助けを求められず、誰からも疎まれ、どこにも定住できなかった。
そして次第に辺境に追いやられていった。
娘はどんなに苦しい労働もやった。売れるものは何でも売った。乞食の真似事だってした。
でも、いくら頑張っても、その状況が変わることはなかった。
病気の母親が疎まれていれば、娘だって一緒に疎まれるんだからね。
一緒に住んでいる限り、人は離れていくばかりさ。
最初に会った時は娘の作った木工品を言い値で買ってくれた人も、
次に会った時は皆と一緒に二人を町から追い出していたよ。
……娘は、もしもさっさと母親を見捨てていれば、もっといい場所で暮らせたかもしれない。
稼ぎを自分のために使って、空腹を忘れて過ごすことができたかもしれない。
でも、それができなかった。母親自身からせがまれても、見捨てることはできなかった。
娘にとっては、最後に残ったただ一人の家族なんだもの。
どんなに醜い姿に変わっていったって、その母親が世界の全てだった。娘には他に何も残っていなかった。
空っぽだったのさ。母親の体と同じように、娘の心も病んでいたんだ。
何度も自ら死のうとした母親を、無理やり生き長らえさせたくらいだからね。
あんなことをすれば、一緒に疎まれて当然だよ。
そうして辺境に……怪物の国との国境近くに追いやられていった。
国境に近づけば近づくほど、人間の数は少なくなっていく。
そこには心優しい人もいた。だけど、そうじゃない人もたくさんいた。
何があっても、誰も母親と娘を助けようとはしなかった。
悪いのは母親と娘の方さ。病気の体を引きずって、開けた辺境の村に転がり込んだりして。
……怪物に狙われるに決まっているのにね。
母親は娘を叱ったよ。母親を庇って怪物の前に立とうとした娘をね。
病気で体がボロボロになっている癖に、力一杯声を張り上げて。
娘を納屋の外まで突き飛ばしたりして。……私のために死ぬなんて絶対に許さない、ってね。
最期には消え入るような声で、絶対に生き延びて、とまで言って、自身の事は何も言わなかった。
娘も娘で大馬鹿なもんで、母親に噛み付いた怪物をその場で返り討ちにしちまったのさ。
一体どうやったのかなんて誰にも分からない。ただ、そこには確かに誰かの農具が打ち捨てられていた。
それで……母親の肩の肉を取り返した。ただの肉片になったそれを、一欠片残らず全部かき集めた。
体中血まみれになるのもお構いなしに、母親にすがり付いてわんわん泣いていたよ。
最後の最後に母親は、娘に自分のエゴを押し付けたんだ。
娘から押し付けられたのと同じ、娘を空虚で猟奇的に変えてしまったのと同じ、
自分自身を病と貧困と迫害と絶望に追いやったのと同じ、幸せな死を迎えることさえ奪ったのと同じ、
そんなエゴを……最後に残されたたった一人の娘に押し付けたんだよ。
真っ赤に汚れた娘は、当然また村から追い出された。
もしも、ソリッド……このゴーレムにあの時会っていなかったら、すぐに母親の後を追っていただろうね。
何もかもを失って、人形みたいになっていたんだから。
人形みたいになった人間が、人間みたいになった岩の人形に助けられたってんだから、笑い話だよ。
……生き延びて、新しい世界を見つけて、ようやくまた笑えるようになったんだ。
だから、これはきっと笑い話なんだよ。
その娘は、母親のことなんて綺麗さっぱり忘れて……忘れたことにして、そう思い込んで、
今もどこかで必死に生き延びているのさ。
母親に押し付けられたエゴだけを、大事に抱えたまま、ね――
「と、こんなもんかねぇ……」
「…………」
「だいぶ話が逸れちまったね。さぁて、何の話をしていたんだったか」
「……そんな……そんな話をされたら、何だか……私まで死ねなくなっちゃうじゃない」
「……あんた、死にたかったのかい?」
「もしかしたら、そうだったかもしれない。
自分が死ぬことで誰かが助かるならって……。そんなの、死んでしまったら理由なんて関係無いのに」
「そう。死んでしまったら全部終わり。それを悲しむか喜ぶかは他人の勝手。
……それでも死んで何もかも終わらせたくなるのも、人間の弱さかね」
「……リカレンスは、死んだのかしら。私を庇うために……」
「またそれかい? お熱いねぇ」
「う、うるさいわね」
「あのコが何を考えているのかは私にもよく分からないけど……
やっぱり、あんたには死んで欲しくないんだろうね」
「どうしてかしら……」
「私が言えるのは推測だけさ。
理由なんて分からなくても、あんたが生きる理由の一つにはなるんじゃない?」
「……そうね。生きて、生き延びて、理由を聞き出してやろうかしら」
――結局、自分はこの遠征で何も得ていないのではないか。
怪物の王への協力要請も通っていない。怪物の国の情勢もほとんど把握できていない。
ただ迷子になって怪物に食べられかけただけの、どこにでもいる村娘のようではないか。
やはり国境の森でほぼ身一つになってしまった時点で選択の余地は無くなっていたのだろうか。
手に残った物は何も無い。
得た物は、手に残っていない。しかし、何も無い訳ではない。
たくさんの怪物を見た。たくさんの怪物に襲われた。
怪物たちと言葉を交わした。怪物たちの生活をこの目で見た。
銀の剣で怪物の体に障害を負わせた。そして、一人の怪物の歩みを変えさせた。
知識と経験を得ただけではない。世界の運命に僅かな影響を及ぼしたのだ。
この旅が無駄だったかどうかを決め付けるのはまだ早い。
まだまだ世界は変わる。何を見て、何を知り、何を考え、何をするのか。
一人ひとりの行動が世界を形作る。
そんな世界に自分たちは生きている。そして、これからも生きていく。
だから、自分はまだ戦い続ける。生き延びる。未来を作るために――