怪物の国、西の草原地帯の小さな林。 そこにある木の上に、トールは居た。
小さくて弱々しくみすぼらしい怪物、トール。 丸い顔、大きな耳、痩せこけた手足、太い腹、そして普通の人間の半分ほどしかない背の低さ。 人間たちの伝承になぞらえてゴブリンと呼ばれる一族の一人。 出身のゴブリンコロニーの中では特別背が高かったが、その力はたかが知れている。 腕力に関しては人間の子供よりも弱く、いつも奪われる側の種族の一員に過ぎない。
彼は木の上でうなだれていた。
何もせず、食事も睡眠もろくにとらず、誰と話すでもなく、ただただ横になって俯いていた。
「おいらって、弱っちいなぁ……」
王の交代。あの大雨の日に聞いた宣言は彼にとって悪夢そのものだった。 一体のトカゲの怪物が相手でも簡単に捻り潰される彼が、トカゲの一団の前に出て無事でいられるはずもない。 頼みの綱だったリカレンスとはぐれてしまったが、王城の周りで彼を探してうろつく訳にもいかない。 逃げるしか無かった。彼には他に選べる道が無かった。 自分以外の全てを捨て去り、一人で走るしか無かった。
今の彼に行き場は無い。 立派な戦士になって戻ると宣言した以上、ゴブリンコロニーに胸を張って戻ることはできない。 他のコロニーに転がり込もうにも、こちらは何も返せない。 何の役にも立たない者の面倒を見続けられるほど平和で能天気なコロニーなど無い。
今彼の手に有るのは、木と鉄で組まれた小型の機械弓一式だけだ。 行商人ジャスミンから後払いで借りたこの弓の品質は確かだ。 素人が手探りで整備しているだけなのに、未だにガタが来た試しが無い。 これを捨てられない理由は、単に借金の原因だから。 これを持ち続ける理由は、いつか自分の強さに変えるため。
弓の練習は続けているが、狩りの役に立ったことは無い。 その重さで手が震えるので、矢が狙った通りの軌道を飛んだことは一度も無い。 ハンドルで弦を張るにも力が必要で、二発目の矢を装填するのに何十秒もかかってしまう。 さらに悪いことに、矢を放った時の反動に体が耐えられない。 飛ぶ矢に引っ張られ、いつも前のめりに転んでしまい、鼻が腫れっぱなしだ。
このままでは宝の持ち腐れだ。
腕力以上の攻撃力を得るための道具なのに、腕力の無さが足を引っ張っている。
これをうまく扱えないことには、自分は本当に何の役にも立たないだろう。
「……いいや、おいらは絶対に強くなるっす! やればできるっす!」
そうだ、今から練習をすればいい。そう思い立ち、弓を手に木から降りるトール。 塞ぎ込んでいても始まらない。 力が無いなら鍛えればいい。技術が無いなら覚えればいい。気力が無いなら奮えばいい。 今までだってずっとそうしてきた。それが自分のやり方だ。
矢を取り付け、ハンドルを回し、弦を張る。矢が適当な木に向くように弓を構える。 集中し、狙いを定め、引き金を引く。
矢は高く高く弧を描き、林の反対側まで飛んで行った。それも、デタラメに回転しながら。 矢の反動に逆らおうとして強く踏ん張りすぎて、後ろにひっくり返ってしまったのだ。
トールは起き上がると、再び木に登り始めた。そして、枝の上で幹に背を預けた。
今までずっとそうだった。これが彼の日常だ。
無い気力を振り絞って木から降り、矢を射ってみて、失敗して、また木に登る。
そしてうなだれ、塞ぎ込み、昼と夜が替わる様を眺めるだけの生活をしている。
そんな日常が壊れる時が訪れようとしていた。
かすかな足音。地面の草木を、踏むのではなく足で撫でているような繊細な音。
それがこちらに近づいていたのだから、のんびり聞いていられる音ではない。
枝に両足で立ち、警戒し始めた。
「にゃおん」
ネコの鳴き声。それが足音の主が放ったもう一つの音だった。
恐怖で神経を研ぎ澄ませていたトールには分かる。 足音は重なることなく同じ間隔で聞こえてくる。つまり足音の主は間違いなく二足歩行をしている。
木の上から姿が確認できた時には、それは既にこちらを見付けていた。
「おやおや少年、そんな所で何をしているのかな? キミも昼寝の最中かい?」
わざとらしく嫌みったらしい口調で話すネコの怪物。その名はクラフト。
体長はトールとほとんど同じ、一メートル強。
人間のような肩と腰の骨格を使って猫背になることなく直立しつつも、
ネコらしく後ろ足で器用につま先立ちしている。
三角の大きな耳が頭の上に立っている。
全身は灰褐色の厚い体毛に覆われている。長い尻尾も同様に体毛で膨らんで見える。
「聞いておくれよ少年。
ボクが今日の昼寝を楽しんでいたら、
こっちの方向から何やら鋭い矢が飛んできて、危うく突き刺さるところだったんだ。
せっかくの昼寝の時間を台無しにされてしまったんだ、さすがのボクでも少し怒っちゃったかもしれないなぁ。
寝起きに機嫌が悪くなるのは皆同じだよね。キミもそう思わないかい?」
両手を腰の横で軽く広げ、面白おかしい昔話でも聞かせるように陽気に喋るクラフト。
それなのに目つきは鋭く、獰猛に輝いている。牙も爪も剥き出しに、怒りを露わにしている。
「……背中に隠した物を見せてご覧よ、醜い弱小怪物の坊や」
その口調は急に冷めて、トールの背筋を冷やした。
「ひ、ひいいいいい!!!」
トールは弓を抱え直し、大慌てで隣の木へ飛び移った。
「キミぃ……このボクから逃げようだなんて、思い上がっているよ!」
クラフトは、風に吹かれた木の葉のようにひらりと舞い上がり、 木の幹を数回蹴ったかと思うと、あっという間にトールと同じ高さの枝に乗った。 そして、木の枝の上という不安定な場所であるにもかかわらず、恐ろしい速さでこちらに走って来た。 距離を詰め、剥き出しにされた鋭い爪で引っ掻く。骨ごと切り裂くために。
トールは爪の攻撃を、弓を盾にして弾いた。鉄の留め具がうまく当たった。 しかし、その衝撃で足場の枝が裂けて落ちた。
トールは枝と一緒に落ちて転んだ。
クラフトの方は一足早く他の枝に乗り移っていたが、すぐに目の前に飛び降りてきた。
「ごめんなさいいいい!!! わざとじゃないんっす! ただ、弓の練習をしていただけなんっす!」
「へぇ、このボクを練習台にしていたってことかい? キミが?」
「違うっす! 誤解っす! これは事故っす!」
「そう、事故だね。そして、その事故を引き起こしたのはキミ……」
「ああああああ! 許して下さいいいいい!」
トールは必死で土下座した。
応戦することも逃げることも不可能だ。腕力も俊敏さも圧倒的に負けている。
まさか知力で勝ることができるはずもなく、平謝りすることしかできない。
「もういいよ。詫びなら死んでからにしなよ」
効果は無かった。クラフトは鋭い爪をむき出しに、こちらへ飛び掛かった。 そしてそのまま真っ直ぐ喉元に爪を突き立てようとした。
その時――風が吹いた。
「うおわああああああああっ!?」
「え……?」
風は激しく渦を巻き、地面の草葉からクラフトの体まで、トール以外の何もかもを空高く吹き飛ばした。 クラフトの体は周りの木のどの枝よりも高く持ち上げられた。
クラフトはすぐさま空中で体を捻り、足が下になるように姿勢を直し、落下先の木の枝にふわりと着地した。 だが着地の瞬間、再び吹いた突風に体を押されてバランスを崩し、背中から地面に落ちてしまった。
トールは土下座の姿勢のまま顔を上げて辺りを見回した。 まだ風がゆるやかに渦巻いている。その中心に、ほのかに光る何かが居た。
トールの手のひらほどしかない小さな人間が宙に浮いていた。顔立ちまで人間の少年そのものだ。
新緑の葉の色の服を纏い、背中からは虹色に光る二枚の羽が広がっている。
金髪が羽の光に照らされている。
「よ、妖精……っすか……?」
その姿を見たトールは、それが妖精だと真っ先に思い当たった。
言い伝えで聞いた妖精の身体的特徴を知っていたとは言え、
どうしても妖精だとしか思えなかった。そう思わされていた。
「安心してください。脅威は取り除きましたので」
妖精らしき存在はそう言った。小さい体から発せられたはずの声なのにはっきりと聞き取れる。
「私はあなたに味方します。さぁ、弓を手にとって戦いましょう」
「……わ、分かったっす」
誰だか分からない。得体が知れない。怪しい。疑わしい。 そんな感情を持ちはしたが、今は藁にもすがる思いだ。
弓に矢をセットし、倒れていたクラフトに向け、トリガーに手をかける。
「タイミングはあなたに合わせます。いつでも放ってください」
妖精はそう言った。その声を聞いたクラフトは狸寝入りをやめて飛び上がった。
「じょ、冗談じゃない! この場は失礼するよ!」
そう言うと一目散に逃げ出した。すぐに遠くの木の影で見えなくなってしまった。
トリガーを引く暇さえ無かった。とは言え、暇があっても彼は矢を放つことはできなかっただろう。
「た、助かったっす……」
「どうしたのですか。逃げ際に一矢放てば良いではありませんか」
「……おいらの勝手っすよ」
トールは呟いた。ぶっきらぼうに、どこか誇らしげに。
辺りが落ち着き、目の前の存在をじっくり見る余裕を取り戻した。 改めて見れば見るほど、妖精だとしか思えない。 体は人間のようでもあり、羽は蝶のようでもあり、 透明感は幽霊のようでもあり、存在感の薄さは幻覚のようでもある。 妖精という解釈は無数の推測の内の一つに過ぎないはずなのに、 まるでそれが正解であると教えられた後のように、頭が妖精だと断定してしまっている。
トールはあれこれ考えた末、一番最初に浮かんでいた疑問を口にした。
「お前は何者っすか? 妖精……なんて、まさかあり得ねぇっすよね」
「ううむ、それでも差支えはないのですが……どう名乗りましょうか。
一つ間違い無いのは、私があなたに味方したいと考えていることなのですが」
妖精はずっと無表情のまま、腕組みして考えるポーズをとっている。
「おいらの味方なんてしても何の得にもならないっすよ。他を当たるっす」
「それが、そうでもないのですよ。ああ、いっそ教えてしまいたいのですが、生憎教えられません」
今度は額に手を当てて首を振り、困っているポーズをとった。
無表情でさえなければ感情豊かに見えただろうか。
「私はあなたに味方したい。受け入れてもらえますか?」
「…………」
トールは考えた。この小さな小さな妖精は、たった今不思議な力で助けてくれた。 ここで承諾すれば、その恩を返すことになるだろうか。 それに、さっきはトールに攻撃を任せていた。 もしかしたら自分で直接攻撃する力はあまり無いのかもしれない。 だとすると、万が一自分と敵対することになっても大した脅威にならないだろう。 自分が強くなるためにも、ここはこの妖精の力を利用するのが得策かもしれない。
考えに考えた。しかし、トールは妖精に背を向けて歩き始めた。
「おいらにはおいらの都合があるんすよ。この話は終わりっす」
「……強くなりたいのなら、訓練の手伝いもできますよ。」
トールはすぐに立ち止まった。
妖精は自分の目的を知っている。今出会ったばかりなのに、そんなことがあるだろうか。
誰かから伝え聞いているとしたら、一体誰から。そうでないなら、一体どうやって。
「もう一度、さっきのように弓の練習をするだけです。効果は保証しますよ」
トールの思考力は限界を迎えた。目の前の存在を受け入れ、妖精と認め、提案に従った。
矢を取り付け、ハンドルを回し、弦を張る。矢が適当な木に向くように弓を構える。 集中し、狙いを定め、引き金を引く。
瞬間、妖精が無数の風の流れを作った。矢は緩やかな弧を描き、狙った木に突き刺さった。
トールの体が風の圧に包まれ、反動に負けずに立ったままの姿勢を維持できた。
「すごいっす……これならコツが掴めそうっす!」
彼は今まで一度しか弓を射る作法を教わっていない。
だから矢を正しく飛ばすための体の動きを全く理解できていなかったのだ。
それが今、実際に矢を狙い通り飛ばしてみて、それに必要な動作を体で感じ取った。
方法を結果から教わったのだ。
「次はどうしますか?」
「今の感じなら、もっと遠くの木にも当てられるっす!
次はあの黒い実が成っている木を狙うっす!」
トールはすぐに次の矢を装填し、遠くの木に矢を向けた。
矢を放った瞬間、……恐らく、妖精が風を起こした。
矢は緩やかに上昇しながら木へ向かい、次は下降して弧を描く――はずだった。
「あっ、間違えました」
「えっ!?」
矢はまっすぐ上昇したまま木に当たると、木の幹が音を立てて裂けた。
その衝撃で、貫通した矢は横向きにくるくる回り、
周りの木々を蹴散らしながらどこか遠くへ飛んでいった。
「出力変換が間違っていたようです。まだ不慣れで」
「ようです、じゃねーっすよ! さっきみたいな事になったらどうするんすか!」
「さっきのようにすればいいではないですか」
「そうそう上手くいかないんすよ! こっちの身にもなるっす!」
騒ぐトール。また危険な怪物の怒りを買えば、今度はどうなるか分からない。 弱い彼にとっては一大事なのだ。すぐに逃げる準備にとりかかる必要がある。
そして、そんな彼の心配は的中するのだった。
地面から叩きつけられるような大きな地鳴りが起きた。
「今の矢ぁ放ったんは……お前さんか」
どすの利いた大声が、矢を飛ばした方向から響いてきた。
トールは戦慄した。山のように巨大な怪物が目の前まで迫っていた。 自分の体ほどもある巨大な眼がこちらをギョロリと睨みつけている。蛇に見込まれた蛙とはこのこと。 彼には一つも選べる道が無かった。 この状況を打開する術は、彼には無かった――