マーガレットは目を覚ました。 もう何度も気を失っている気がするが、慣れられたものではない。頭がくらくらする。
周囲はうっすら明るい。 今自分がいるのは、大きな倒木をくりぬかれてできた穴の中だ。 ほんの小部屋程度の広さで、出入り口は天井に一つだけ。 そこから日の光が入り、穴の中を照らしていた。
――欠け落ちていた記憶が交錯した。倒れる前にいたリカレンスとトールはどこにいるのだろう。 あの出来事から察するに、この穴を作ったのは巨大な虫の怪物に違いない。 リカレンスがムカデの怪物に何もできないまま、自分は虫の巣穴に連れ去られてしまったのだろうか。
マーガレットは穴の出口から恐る恐る周囲を見回した。
外は無数の大木がそびえる大森林だった。 目に飛び込んできたのは、虫の大群。大小種類様々な虫が無数にうごめいている。 小さいものは裁縫針の穴よりも小さい。大きいものは、なんとマーガレットよりも大きい。 チョウ、アリ、ハエ、バッタ、コオロギ、カナブン、クワガタムシ、ダンゴムシ…… さらにはムカデやミミズまで。 この気候帯に本来生息しないはずの虫まで大勢いる。 体を手入れする虫、日光浴する虫、蜜を吸う虫、木を上る虫、空を飛ぶ虫、空から降り立つ虫―― 思い思いの行動をしているが、餌や縄張りを奪い合う虫は一匹もいない。 国境の森で見たのとはまるで正反対の光景だ。
マーガレットはしばらくその様を呆然と眺めていた。 怪物の国の光景であるはずなのに、非常に穏やかだ。 今まで見聞きした事とは何もかもが異なっている。
やや遠くにリカレンスの姿が見えた。
マーガレットは小石を拾ってそちらへ投げた。
運よく頭に当たり、呼び寄せる事ができた。
「起きたか。さっさと出発するぞ」
「アニキ、メシが先っすよね!」
二人が話しかけてきたが、話が見えない。
「何を言ってるの? ここはどこ? どうして頭が……」
「ここは――」
リカレンスが言いかけたとき、地鳴りのような音と共に、巨大なムカデが木の陰から頭を現した。
「ここは節足動物が集まるコロニーの一つですよ、人間のお嬢さん」
「あっ……!?」
軋むような声が聞こえた。マーガレットは一目散に後ずさり、巣穴の奥の壁に背をつけた。
「あの、怖がらないで下さい。僕はあなたの味方です」
「……信用できると思って?」
「こう見えても、こちらのリカレンスさんにはいつもお世話になってますから」
マーガレットはムカデを睨み付けたまま剣を抜こうとする。
リカレンスがそれを左手で制した。
「それよりも、さっきの話だ」
「話?」
マーガレットが聞き返す。それに答えたのはムカデだった。
「はい。トカゲの怪物の話です」
「トカゲ……」
「ひとまず場所を移しましょうか。食事を用意しましたので、その時にお話しします」
そう言うと、ムカデは三人に背を向けた。
「どうぞ乗って下さい」
「……」
しり込みするマーガレットを尻目に、二体の怪物はムカデの背に飛び乗った。
――トカゲの怪物の話。国境の森でマーガレットを襲った怪物と何か関係があるのだろうか。
ムカデの体に触れるのは気持ち悪い。しかし、話は聞いておきたい。
マーガレットはしぶしぶムカデの背に乗った。
「いいですか? 出発しますよ」
「おう」
「いいっすよ」
「……良いわ」
「それじゃあ、出発です! 頭上を飛ぶ虫たちにご注意下さい」
「……広場はすぐそこなんだがな」
ムカデはぐねぐねと歩き始めた。向かう先はコロニーの中央広場。
虫たちに見守られながら、ムカデの巨体が森の地面を切り裂いていく。
広場には夏の柔らかな日差しが降り注いでいた。 大勢の虫たちが集まっている。とは言え、このコロニーの中では半数にも満たない個体数だ。 大小さまざまな虫がいるが、例の巨大ムカデが群を抜いて大きい。 マーガレットたちが果物などで腹ごしらえしている中、ムカデに視線が集まる。 どうやらこれからスピーチをするらしい。
マーガレットは小声でリカレンスに話しかける。
「あのムカデがここのボスなの?」
「一応な」
「……あれの名前は?」
「アフレイド、と言っていたな」
「……アフレイド? そ、そうなの」
何度聞いても、怪物たちの名前の付け方に慣れない。ムカデとでも呼ぶしかない。
「よくあれと知り合いになれたわね」
「あいつはこの辺に住む大半の生物と顔見知りだ。あの図体だからな。
その中に俺がいても何の不思議も無い」
確かにあの巨体では、関わり合わない動物の方が少なくなりそうだ。 顔が広い事も統率者として有利な武器なのだろうか。
巨大なムカデ――アフレイドはスピーチを始めた。
「皆さん、聞いていただけますか?」
虫たちが思い思いの鳴き声で返事をした。とても短い大合奏だった。
「もうご存知かと思いますが、今このコロニーには危険が迫っています」
思いがけない言葉を耳にして、マーガレットは食べ物を置いて傾聴した。
「トカゲの怪物があちこちを荒らし回っています。
奴らはこのコロニーのすぐ近くでも数多く目撃されています。
もしもこのコロニーが攻撃の対象になるのなら、早急な対処が必要です。
僕の指揮を受け入れてもらえるならば、皆さんの力を貸して下されば……その、嬉しいです!」
アフレイドは声を張った。
その声に、虫たちがさらに大きな鳴き声で喝采した。
あまりの大歓声に、マーガレットは耳を塞がずにはいられなかった。
「ありがとうございます! ありがとうございます! 皆さん、一丸となって戦いましょう!」
アフレイドの声はもはや歓声にかき消されていた。
人間臭いジェスチャーで静かにさせるまで長い時間を要した。
「敵の狙いも勢力も分からない以上、こちらから仕掛ける事はできません。
トカゲの怪物を見かけても、迂闊にこちらから手を出さないようにして下さい。
戦闘部隊は防衛の準備に徹して下さい。僕はそちらに加わります。
偵察部隊はできるだけ複数で行動して下さい。
こちらが十分警戒していることを暗に教えて、奇襲をためらわせようと思います」
――マーガレットはやや拍子抜けした。
それは作戦と呼ぶには非常に消極的だ。やる事は普段と変わらないのではないだろうか。
北の谷へ向かう前にトカゲの怪物たちを片付けてくれれば安心できたのだが。
「あ、それから……お前はリカレンスさんの護衛に回ってくれ」
「ギーッ。了解」
アフレイドの指示を受け、大きなカミキリムシがマーガレットたちの方へ飛んできた。
「ギーッ。護衛する……」
「アニキの護衛はおいらだけで十分っすよ!」
トールがリカレンスの前にしゃしゃり出た。
「じゃあお前が護衛してもらえ」
「アニキ……遠回しにけなしたって分かるんすよ! ひどいっす!」
「ギーッ。じゃあこっちを護衛する」
「真に受けてんじゃねーっす!」
どうやらトカゲの怪物がうろついている中を突っ切ることになるようだ。 マーガレットにとっては気が進まないどころの話ではないが、今はリカレンスに従うしか無い。 この食事が済んだらもう出発することになる。 せめてゆっくり味わって食べるくらいが精一杯だった。
その食事の時間もすぐに終わってしまった。束の間の休息だった。
「食べたか? じゃあ出発するぞ」
「お手伝いできなくてすみません。道中お気をつけて」
マーガレットは名残惜しそうに立ち上がった。
マーガレットたちはコロニーから離れて森を進んでいく。 その後ろを護衛のカミキリムシがついて歩く。
先ほどの話では、トカゲの怪物がうろついていると言っていた。
トカゲの怪物と言えば、マーガレットが国境の森に足を踏み入れてすぐ襲ってきた怪物だ。
人間のような姿にトカゲの特徴を持っている。
その点は昨日の夜に見たコウモリの怪物と似ている。
人間をベースとした怪物。
人間とほぼ同等の知能と器用さを有していることは分かっている。
チームで連携を取って獲物を追い詰める手際などは身を持って体感した。
あれと二度も対峙したくはない。
最初は偶然にも助かったが、二度も三度も助かるとは思えない。
何事も無く北の谷に着いて欲しい。
――そう思っているときでも、悪夢は平等に訪れる。
「うおっ!?」
リカレンスが転んだ。地面に倒れこむ所を、左手一本で支える形となった。
見れば、頭上から伸びたツタ状の植物が足首に不自然に絡みついている。
立ち上がろうにも、足がツタに持ち上げられてバランスが取れない。
「こ、これは罠っす!」
「罠? 誰がそんな……」
その時、声が轟いた。
「かかれぇ!」
「イエッサァ!」
トカゲの怪物が木の上から飛び降りてきた。その数四体。
着地するなり真っ先に飛び掛ってきた。
「ギーッ! 護衛する……」
カミキリムシが前に出て、鋭いアゴを突き出す。
その威嚇にトカゲたちはたじろいだ。
しかし距離を取りながらも反撃の隙を窺っている。
「アニキ! まったり倒れてる場合じゃないっすよ!」
「さっさと私を守りなさい!」
マーガレットはナイフを取り出し、リカレンスの足を捕らえるツタを叩き切る。
足が地面に着いた時、トカゲの一体がこちらへ跳んだ。
爪をむき出しにした手が突き出される。
「ふんっ!!」
爪が届く前に、リカレンスの左腕が振られた。
「ガッ!?」
拳がトカゲの首に炸裂する。
怪物の体は真横に吹き飛び、木に叩きつけられる。
そのまま倒れこんだが、痛みにうめいているので息はあるようだ。
「ギギーッ!」
カミキリムシが蹴りを受けて地面に落ちた。
それを跳び越えて迫り来るトカゲの怪物。
リカレンスは再び左腕を振る。一体の腹を掴み、残る二体を退けるように振り回し、そして放り投げる。
その拍子に体が右に大きく傾いた。片腕でバランスを取るのはやはり難しい。
「ああもう! 倒すのは良いけれど、私を守りなさいよ!」
マーガレットは剣を振り回し、迫り来る怪物に応戦する。
しかし力の差は歴然。剣と一緒に突き飛ばされてしまう。
よろめきながら後退するが、再び剣に攻撃を受けて尻餅をついた。
そこにリカレンスがすかさず援護の拳を放った。トカゲはいとも簡単に吹き飛んでいく。
「ああ! 後ろ!」
まだ倒れていない最後のトカゲがリカレンスの背中目がけて跳躍した。
鋭い鉤爪がその背中に深く突き刺さる。肉が深く抉られ、赤黒い血液が飛散する。
「く……」
リカレンスは振り向きざまに拳を振るが、避けられてしまう。 血の塊がボタリと垂れ落ちた。 その音に重なるように複数の足音が響く。 先ほど吹き飛ばしたトカゲたちが皆立ち上がって向かってきている。囲まれてしまった。
――このトカゲの怪物たちは、この辺りの怪物にしてはかなり強力だ。
パワーもスピードも知能もかなりの高水準。
倒すだけなら簡単だが、それでは勝利と言えない。
少しでも気を抜けば、すぐにマーガレットが致命傷を受けてしまう。
片腕のリカレンスと不器用なカミキリムシだけではマーガレットを守りきれない。
……トールの姿が見えない。きっと逃げたのだろう。
「こんな事になるとはな……」
「そんな事を言っている場合!? どうするのよ!」
他人事のように呟くリカレンスに、マーガレットは気を荒立てた。
「大人しく守られていろ」
「大丈夫なんでしょうね?」
「お前次第だ。とりあえず屈んでろ」
マーガレットは言われるまでも無いとばかりに息を吐き捨て、姿勢を低くして剣を構えた。
トカゲたちはじりじりと距離を詰めてくる。
リカレンスもカミキリムシも構えて怪物を睨む。
誰もが相手の動きだけに集中していた。緊張感がその場を支配する。
遠くに虫たちのざわめきがかすかに聞こえる。そこに混ざるかすかな足音が着実に鼓動を早める。
今、全ての動きが止まった。
――静寂の外から喧騒がやって来た。
一つの飛来物がトカゲの顔に破裂した。
「ぐあっ!! め、目が……痛いぃ!」
さらに同じ物がもう一つ、別のトカゲの顔に炸裂した。手で目を押さえて苦しみ始めている。
「ぐわああああ!! 目がああああ!!」
「何だ何だ!?」
「狙撃か!? マズい、撤退だ!」
トカゲたちは目を丸くしてひとしきり騒ぐと、一目散に逃げていった。
物体が飛んできた方向を見ると、木の上に小さな怪物がいた。 トールによく似ている、丸い顔と大きな耳、そして太い腹に細い手足。 それが木の陰から四体ほど姿を現した。
マーガレットは呆気にとられた。あまりにも似すぎているのだ。
「と、トール? ……分身?」
「いや、あれは――」
小さな怪物たちは木から降りると、こちらに駆け寄って来た。
「アニキさん!」
「久方ぶりっすアニキさん!」
「お元気でしたっすかアニキさん!」
元気に笑いかけてくる怪物たち。その呼びかけには不自然さが残る。
「……やっぱりトールの分身?」
「いや、こいつらは――」
「アニキィィィィィィィィィー!!」
叫び声と共に向こうから走ってくるのはトール本人だった。
そのままの勢いでリカレンスの足に抱きついた。
「アニキ、無事で良かったっすー!」
「お前、逃げただろ」
リカレンスはすぐにトールを振り落とした。一度転んだトールは目にも留まらぬ速さで起き上がる。
「ち、違うっす! こいつらを呼んで狙撃を指示して……」
「たまたま通りがかったんすよ。そいで加勢を」
「いや、おいらの指示で集めて!」
「こいつが泣いて頼み込むもんっすから」
「泣いてないっす!」
トールが仲間の怪物たちと応酬を交わしている。
マーガレットから見ると、彼らの見分けがほとんどつかない。
背丈も大まかな特徴もそっくりだ。顔の造りが若干違うようにも見えるが、はっきりと区別できない。
手に持っているのは木製の水鉄砲のようだ。ただ後ろから押し出すだけという簡素な筒状のもの。
トカゲたちの反応から察するに、香辛料や柑橘類でも使っているのだろうか。
……そのカラクリがバレたら逆襲を受けるかもしれない。
「こいつらはゴブリンだな」
「ゴブリン? それって確か、伝承上の……」
「人間の国には全くいないらしいな」
小さな怪物――ゴブリンのうちの一体が前に出た。
「人間がいるっすね。うちのコロニーに来るといいっす」
「……どうして?」
「今、うちのコロニーに人間が来てるんすよ」
「人間が!? それは本当!?」
マーガレットは驚いた。怪物に支配されたこの国に人間が来ている。
これはもう会うしかない。何が何でも会わなければならない。
「じゃあ、そのコロニーとやらに案内しなさい! 今すぐに!」
「おいおい……進路から逸れるぞ」
リカレンスは反論混じりに指摘した。
「構わないわ! 行くわよ!」
「いや……まぁ、いいか」
マーガレットの気迫に押され、ゴブリンたちのコロニーに進路を変えることになった。 実際彼女は早く人間に会いたい一心で、他には何も考えていなかった。 そこにいるのは誰なのかなど、一切考えていなかった。